Die großen kosmischen Lehren des Jesus von Nazareth an Seine Apostel und Jünger, die es fassen konnten

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それが意味することを認識しなさい。軽率に人間や動物、植物を殺すことは、あなたが自分の中のそれらに陰をつくることであり、自らの生命を妨げることになる。そしてあなたは、周囲に対して破壊的に働きかける利己的な人間、つまり愚人であり続ける。
あなたは、あなたの中でのみ、すべての中の「神による存在」を見据える。そのため、あなたは周りを見る必要はない。あなたは自らの中に深い視野を持っている。

天にあるものは、地上にもある。単に神から離れているだけである。神の法則とは、無私無欲の非個人的な愛である。神は与え、献身し、誰にでも均等に与える。
種と収穫の法則は、自己愛によって起こったものである。個人本位の愛である。この愛は、「ある人が、他の人よりも私の近くにいる。私に近い人のほうが多くを手に入れ、他方の人が得るものは少ない」というものである。これが、個人本位の愛、自己愛、利己的な愛である。
天にあるものは、地上においては変化した形をとっている。そのため、地上、物質世界、浄化の段階は、永遠の「神による存在」を写し出す鏡にすぎない。種と収穫の法則は、鏡像と見なすべきである。
天は「神による存在」であり、純粋なもの、万物に光を当てる神の法則である。種と収穫の法則は、人間が言うところの「神による存在」であり、「私のもの」や「私に対するもの」で構成されている。それは、下位の段階の自我に由来して生じたもの、生じるものである。
純粋なものは、「神による存在」、自己、「私はある」、非個人的な生命、神の法則である。純粋な存在は、純粋なものであり、自己であり、「神による存在」、非個人的なもの、「私はある」、神の法則である。それらの感情、言葉、行動は神の法則であり、自己、「神による存在」、非個人的なもの、純粋なものである。それら(それらのエーテル体は法則なので、法則とも言える)は、自ら、純粋なもの、「神による存在」、自己、非個人的なもの、神の法則を感じ、話す。
種と収穫の法則は、概して重荷の法則と言い換えることができる。それは多くの人間的な自我の要素から成り立っており、それが各人間の自我の法則となっている。各人間の自我の法則とは、相反する感情、思考、言葉、行動から成り立っている。自我の法則は、個人の法則と言い換えることもできる。何故ならそれは、自らの自我を送り、それ と同じ発信の潜在力を再び受け取る個人に関するものであ るから。
個人の法則をつくった者は、その中に生き、それが保存されている天体の中で自らの魂を通してそれを呼び出す。あなたの隣人は、同様あるいは類似のものを、同じまたは似たような負の感情、思考、言葉、行動によって生み出さない限り、あなたの自我の法則には適合できない。

純粋な存在は、永遠の法則の中で動く。それは法則を話 し、それ自体が永遠の法則である。
重荷を負った人は誰でも、自分の自我の法則の中で動く。それは自らの小さな世界であり、その人自身の自我、「私のもの」、「私に対するもの」によってつくり出した世界である。その人は、自分の小さな世界を話す。自分の自我の法則を築くのに使ったものを話す。この法則に従って、その人は自分を感じ、自分のことを考え、自分のことを話し、自分の感情、思考、言葉のとおりに行動する。つまり、その人は自らの下位の自己、自らの下位の「神による存在」に従って感じ、考え、話し、行動することになる。
人間的な自己、つまり下位の自我は、隣人に対する目を持たず、耳を持たず、感覚を持たず、自分自身に対するものだけを持つ。
この人間的な自己は、神聖な自己、聖域の中に入ることができない。そのため、隣人のことを感じ、認識し、見通し、知ることもできない。何故なら外在化した人間の中では、無私無欲がいまだ開花していないからである。
人間的な自己、下位の自我は、神聖な自己、つまり万物に光を当てる「私はある」とは相容れない。
純粋な人は純粋なもの、永遠の法則、神を話す。純粋でない人は、自らの純粋でないもの、自我の法則、下位の自己を話す。
つまり、誰もが自らのことを話す。純粋な人は絶対なる自己、つまり「私はある」という神のことを話し、純粋でない人は下位の自己、つまり個人だけに関する下位の自我しか話さない。

静かな心を保ちなさい。
内なる静寂の中で、あなたは神からの存在であることに、神の中にいることに、気づくであろう。永遠の父とあなた、すなわち神の子供は一つであるのだから。純粋な存在であるあなたは、聖域の中に生き、あなたの中に、自己の中に生きている。あなたは神の神殿であり、あなたの中に至高の聖人が宿っているのだから。
静かな心を保ちなさい。
あなたの中に静寂があり、あなたは静寂の中にいる。あなたが静かになれば、もはや人間の感情、思考、言葉、 活動、慕情を持つことはない。あなたには究極の静寂、神が浸透しているのである。
あなたの中で、浄められた感情、思考が開花する。あなたは大いなる全体のために魂を吹き込む言葉を発し、非個人的な行動をとる。
真の自己、すべてを包括する強力な「私はある」という神の存在は、あなたに伝わる。そしてあなたは美の輝き、純粋なもの、高尚で繊細、崇高なものとなる。何故なら、あなたが自分の中、永遠の自己、「神による存在」の中に住んでいるからである。そしてあなたは天がそうであるように、美、純粋、高尚、繊細、崇高、善意、無私無欲の愛となるからである。
愛の太陽は、光の言葉を持つ。愛の太陽は、あなたの中で、あなたを通して光り輝く。
あなたの本質は、太陽の輝き、無私無欲の愛である。
静かな心を保ちなさい。全くの静けさを。誰も、何もあなたの中で煽動するものはない。
神聖な神殿の秩序、つまりあなた自身が無私無欲の愛の輝きであり、正義の太陽であり、あなたの生命の歓喜であり、「私はある」という「神による存在」である。

あなたが何を行おうとし、満たそうとしようとも、あなたの中の真の自己、「神による存在」は、あなたを通して感じ、考え、話し、行動する。
あなたの崇高な、無私無欲の感情と思考は、「神による存在」であり、あなたがそうであるように神聖なものである。
真の「神による存在」は、事柄と出来事にのみ関連する。そして、事柄と出来事の中で純粋なものとやり取りする。事柄と出来事の中の純粋なものが、心の内であなたに語る。あなたはどのようにしてその事柄と出来事を軌道に乗せるべきか、どのように計画すべきか、どのようにそれぞれの状況を解決することができるか、どのようにして無秩序を秩序に変えることができるか、どのように不浄なものを浄化することができるかを語る。
あらゆる質問の中に「神による存在」があり、
あなたに答えを用意している。
あらゆる答えの中に「神による存在」があり、
場合によっては再び質問をあなたに向ける。
あらゆる会話の中で、「神による存在」が作用し、
あなたはそれを自らの中に知る。
あらゆる言葉の中に、「神による存在」があり、
それがあなたに語りかける。
あなたが見たり出会ったりするあらゆるものの中に
「神による存在」があり、それがあなたに姿を
見せて語りかける。
あなたが心の奥深くにいれば、あなたの神殿は純粋と
なり、あなたは純粋なものとやり取りする。
あなたは、他人が聞かないものを聞き、
他人が見ないものを見る。
あなたは他人が知らないことを知り、
他人が認識しないことを認識する。
あなたは他人が感じないことを感じ、
他人が嗅がず味わわないものを嗅いで味わう。
あなたには他人が理解しないことがわかる。
何故ならあなたが真理であるから。神殿の静けさであり、
無私無欲の愛、神の法則であるから。
認識しなさい。
あらゆる事柄、出来事、困難、問題、状況、話し合い、つまり言葉の一つひとつが、それ自体を語る。
事柄、出来事、問題、困難、状況、行動、思考の一つひとつの中にある「神による存在」がまた、力強い自己を、「神による存在」を語るのである。
外側の覆い、つまり人間的なものは、自らを語る。覆いの中の力、つまり「神による存在」もまた、自らを語る。それは「私はある」である。
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